エコビレッッジのフィールド内に春を予感する息吹があちこちで起き始めると、どこからともなくやってくるメジロたち。この愛すべき訪問者はアペルイの春の風物詩となって心が微笑みます。そしてエコビレッジの住人である愛すべきネコのサッちゃん。人懐っこく多くの人に愛されて、これまた人が微笑みだします。
写真は、愛する者が愛する者を殺す情景です。
愛する者が多く混在していると、微笑ましい夢想の綺麗な世界だけを見続けるのには無理が生じてきます。写真にうつる冷徹な彼女の目を見ていると、とても可愛い飼い猫とはいうことのできない、個としての尊厳を備えています。写真を見て初めて気づいたサッちゃんの歯並びが、僕のサッちゃんに対する認識不足をあらわにしてくれました。かわいいだけじゃない残酷さが、人と同様にして内在していることに。僕ら人間もまた笑顔で見えないようにしながら、捕食者として写真のような眼差しで毎日生きものを口にして、命をつないでいるのでしょう。
残酷エ「ゴ」ビレッジ。そんな名前が本当は適してますね。笑
ヒトは自分にとって有益だと思うことを暮らしに導入して、自分たちの暮らしを快適にしたがる性があります。サッちゃんは前の家にネズミが多いことから妻によって飼われはじめた猫です。食料を荒らしていたネズミは見事一掃され、ネズミから解放された妻はとても嬉しそう。ネズミの赤ちゃんはさぞ恐ろしかったことでしょう。一方、僕は鳥愛好家。フィールドにやってくる鳥にたまらない喜びを得ているので、鳥が殺されているのは、ちょっと、、、。彼らは野菜を食べてしまう虫を食べてくれるありがたい存在です。と思いきや僕が愛し育てているお米や果物も食べてしまいます。そして、実は僕は猫アレルギー。目に猫の毛が入ると、、、。そして、鳥を愛してるといいながら、こんな写真を撮れてしまう一面も持っています。
なんだか支離滅裂で統一性のない文章ですが、これがエコビレッジで核となっている「関係性」ということになります。一つの生きものが何か欲求を満たそうとするとき、他者には耐え難いストレスを与えてしまうこの関係性は、アペルイだけで起こっていることではなくて、地球上のあらゆるところで実は起きていて、この関係性においてこの地球の生態系が成り立っていることは、知識としては小学生でもわかっている事柄です。その関係性が、自給的な暮らしをしていると全く別の色となって生々しく如実にあらわになります。温かなお風呂に入ろうと思えば、木を殺して、その死骸を燃やしてエネルギー源にしたり、野菜を食べたいと思えば、裸の大地を森に戻そうとする雑草たちを殺して、大地を再び裸にし、自分好みの野菜の種をまくといったぐあいに。野菜を愛する僕らは、水をかけ、鶏のフンをやり、手塩にかけて育てます。そして、大きくなっていく野菜の造形美に感嘆し愛でます。そして、その直後残酷にも鼻歌を歌いながらみじん切りして、笑顔で食べれちゃう一面をもっています。
や〜今日も残酷なことしてたなあ。
人は地球ではとても優雅には生きてはいけないなあ。
農園にいるとそんなことよく思います。もし、都会でこれらの残酷な作業から免れて、スマートで優雅な暮らしを手に入れたとしても、生きものにとって一番大切な水と空気が美しくなくなってしまっている事実は、どこの都会も決まって、人間の都合に地球を合わせようとすると、大きなストレスを生んでしまう耐え難い一例だと思います。
そんな「残酷な関係性」がわかりやすく可視化できる場としてアペルイのエコビレッジは存在しています。なのでコアな仲間内で創り上げる閉鎖的でユートピア的な場づくりではなく、開放的で現実的な核家族の試みです。戦争がなくて、搾取がなくて、取り返しのつかない自然破壊が起きない持続可能なライフスタイルを、核家族でどこまで実現できるか、そこをチャレンジしています。時折、僕らの思いに賛同してくれた旅人や島の人が協力してくれることもあります。それにまだ会わない未来の旅人を加え、上述した殺し合いをしてる他の生きものたち、そして微生物までも含めたらアペルイのエコビレッジの村人はとんでもない数になります。これまで書いてきた文章は、よく質問されるけど、いつも正確に答えられなかったことに起因してます。
「何家族ぐらいでどんな村づくりを目指してるんですか?」
これからは、この生々しい「家族」写真を見せながら、こう答えよう。
「10兆家族ぐらいですかね〜。毎日、彼らとガチャガチャ殺し合いの日々ですよ。」