自由な楽校8時間目は、男の血がさわぐ狩猟採集!
いってみよー。
経済が息切れして休憩してしまうと本当に生きる手段を失い、人は生きていけないのでしょうか。最近の疑問の中心です。山の自然、里の自然、海の自然。この3拍子そろった屋久島で生きていると
「そんなことはない!」
活気づく春の森から、そう聞こえてきます。
屋久島にはこんな言葉があります。
海に十日、里に十日、山に十日。
昔の島の人は、この3wayでバランスよく恵みを得て、暮らしていたのでしょう。従属栄養動物としての経済活動は本来、お金を稼ぐことではなく、資本である自然の恵みを採取して、それをエネルギーにして生きていく活動です。お金はあくまでも自然からの恵みを手に入れるためのちょっと便利な道具でしかありません。その道具集めだけに無我夢中になってしまうと、ちょっと本質からずれてしまうと思うんです。
この島の言葉にはこんな思いも含まれているそうです。
どんなに魚が捕れても10日以上海に行ってはいけません。どんなに山にたくさん木があっても10日以上山へ入って荒らしてはいけません。全てを取ってしまうのではなく、必要な分だけを自然から恵んでもらいましょう。過剰に採取しなければ、海と森はずっと恵みをもたらせてくれるから。
この言い伝えを後世に伝えた先人たちが、天から今の世界を見ているなら、僕らはなんて言われるのでしょう。
やりすぎだろう。。。おまえたち。
経済サンはこれまでさんざん頑張ってくれました。その縁下の力持ちは世界中の大人たち。里でのお金稼ぎで明らかに十日以上働いてしまっていたから、ここは一つ!ゆっくり休もうじゃありませんか。
そして、子どもをつれて海と山にいこう!
これからの時代、生きぬく手段を、何通りか知っておいたほうがいい。
お金を得ることが主の仕事は、字の如く組織に仕える受動的なもの。しかし、生きることが主の志事は、心がのぞむ主体性のある聖なる行為。それは、創意工夫が必要で、苦労の先の喜びや、自らの力で手に入れた充実感に満ちた作業です。
お金だけに頼る暮らしでは、子どもは結構なお荷物になりがち。食料に、習い事に、塾に、学校に、おもちゃに、お菓子に、スマホ代に。なんでも親がお金をかけて与えるしかありません。かかる養育費は半端ない金額です。共働きしないと厳しいです。0歳から保育園にあずけて共働きするなんてざらにある現代社会です。そして、預けるのにももちろんお金がかかって、さらに家計は火の車。
子ども育てる=お金がかかる
そりゃ、少子化になるわという構図が、狩猟採集を暮らしに取り入れるとがガラリとかわります。
子どもは本来とても助かる存在。
「父ちゃん、ここにも貝たくさんいるよ。」
「父ちゃん、これ受け取って。」
子どもから食料を手渡されたときの喜びは、言語化できない感動です。
何か子どもたちに養われてる気分。笑
狩猟採集は
親が子へ一方的にすべてを与えるものじゃないということを教えてくれます
そして
子どもは最高の協力者で、友に生きていく頼れるパートナーとして 深く認識されます
親のその念が通じるのか、子どもたちは何とも言えない自信に満ち溢れた表情になっていきます。そんな積み重ねの日々が、彼らに揺るぎない自尊心と自己肯定感を育ませていくのだと思います。
なんか、親が学ぶための楽校になってきたなあ。笑
それもまた、自由でいとおかし。