我が家の暮らしがすべて薪になって7年くらいが経つ。
お風呂を沸かすのも、部屋を暖めるのも、料理するのも。
生活に欠かせない家事のエネルギーすべてが薪。
数年前からは、俊三が塩も薪で作っている。
最近は、それが普通になり過ぎて、火を熾す大変さはあまり感じなくなったけれど、昨日、塩釜の火に苦戦する長男・洸平の泣きそうな顔を見て、移住当初、風呂焚きすらできなかった自分を思い出した。
朝、父ちゃんに塩釜の火の番を頼まれた洸平。
塩作りは、廃材や太い丸太を使って長時間炊き続けるため、料理の時のように小まめに薪をくべなくてもいいけれど、太い木がしっかりと燃えるように、炉内を高温に保ち続ける必要がある。
そのため、1時間に1回くらいは、ちゃんと燃え続けているか、薪があるか、チェックしに行かなければいけない。
だから塩作りの日はあまり家を空けられないけれど、午後からみんなで川に行くことになり、「火の番」の責任を負った洸平は、出発直前に太い木を多めに突っ込んで、2時間以内に戻ってこよう!と話して一緒に出発した。
予定通り2時間以内で川から戻って来ると、すぐに洸平は塩釜に走った。
しばらくして、なかなか戻って来ないので様子を見に行くと、半べその洸平が塩釜前の森から細め目の枯れ枝を持ってきては炉内にくべて「ふーふー」していた。
川に行く前に突っ込んだ太い薪にあまり火が移っていなかったらしい。炉内の温度が下がり、火が燻って(くすぶって)いる。
何度も吹いて頑張る洸平をしりめに、太い薪は白い煙をもうもうと上げるばかり。
煙で目が痛くなり、喉も苦しくなり、ますますイライラが募り、悔し涙を浮かべる洸平。
そんな洸平に、「泣いても火はつかないよ!かしてごらん!」と少しきつく言ってしまった私は、その後になって、移住当初の自分を思い出し後悔した。
「火がつかないの、悔しいよね~!分かるよ~」と優しく言ってあげればよかったと。
12年前、まだお風呂だけが薪だった屋久島移住当初。
火の暮らしがしたいな~とおぼろげに想っていた私にとって、五右衛門風呂は理想の生活の第1歩だった。
でも、火の暮らしはそんな簡単なものではなかった。
1日2日キャンプで火をつけるくらいなら大変さも楽しめるだろうけど、毎日お風呂に入る度に火をつけるのだ。
火がつかなければ、温かいお風呂には入れない。
初めは俊三が沸かしてくれていたけれど、ガイドが忙しくなってからは、私の役目。
料理をしながら(当時はまだガスコンロだけど)、更にまだ1歳の洸平を見ながら、お風呂の火をつける。
火がついた!と思って料理をしていたら、いつの間にか燻っていて煙もくもく・・・
吹き竹でふーふーしていたら、1歳の洸平が泣いて私を呼ぶ声がして、焦れば焦るほど、更に煙はもくもく・・・
「もーやだー!」と何度も泣き叫びそうになりながらの日々だった。
だから、洸平の気持ち、痛いほど分かるよ。
でも、
火がついて、温かいお風呂に入れた時は、毎日のことなのに、最高の幸福感に包まれていたなぁ。
きっとこの幸福感は、大変さを味わったからこそ感じるものだろうなと思う。
なんでも手に入り、ボタン1つでいろんなことが出来てしまう今の時代、自分の思い通りにならない火を扱う課程には、様々な学びが詰まっていると思う。
その後、我が家は「5歳になったら風呂焚き当番」というルールを決めて、5歳になった洸平に火を教え、さらにその3年後に5歳になった次男・晴には、洸平が火を教えた。
今では、子どもがお風呂や薪ストーブの火、母ちゃんが料理の火、父ちゃんは生活すべての薪を用意したり、塩を炊いたりと、家族みんなで役割分担しながら、薪火の暮らしをしている。
火が扱えるようになれば、災害などで電気やガスが使えなくても、木さえあれば生き延びられる。
何が起きるか分からない今の時代、生きる術としてとても大切だと感じている。
ただ、薪火の暮らしをする理由はそれだけではない。
それは、「エネルギーの自給」という話になってくるのだけれど・・・
長くなるので、今日はこの辺で。
久しぶりに、火をつける大変さと幸福感を思い出した一日でした。
あゆみ
燻る太い薪